ディア・プルーデンス

 緊急事態宣言の発令を受けて、どこもかしこも大なり小なりの変化を要されていることと憂う。ここ神戸は垂水においてもその例外にはなく、軒を連ねる商店は日毎に閑散の度合いを強めている。だが皮肉にも時を同じくして、駅前に二つあるスーパーマーケット、数軒のドラッグストア、そして郵便局は平時を超える賑わいを見せている。さらにもう一つ賑わっているのは海岸のエリアだ。今も散策したが、1キロ近い遊歩道沿いに広がる浜辺は、ゴールデンウィークということもあり、ざっと見積もっても300人を超える家族連れで賑わっている。浜辺との境界に遊歩道と集合住宅を挟んで伸びる国道を走る県の街宣車が不要不急の外出自粛を呼びかけるが、その声は浜辺から伸びる嬌声に掻き消される。この文章を駅東口の区役所前広場で綴っているが、つい今しがた、頭上のメガホンから同じ呼びかけが繰り返された。平時は路上の先生方による職員会議で賑わう広場だが、やはりここ数日はどこかにその鳴りを潜めているようだ。同じく賑わっていた西口広場は数ヶ月前に全てのベンチが撤去され、また至る街角に禁煙の張り紙がなされ、私が住んだ一年強という短期間にもこの辺りの風景は見違えてしまった。
 さて、漁港のへりに位置する自宅へと戻り、続きを書くとしよう。机上にはパソコンを挟んで、さっき買ってきたビールと、昨夜仕込んだナスのたたきがある。ナスを軽く炒めて、玉葱とネギと、先日友人から譲り受けた大葉を散らしただけのこれが、どうしてこうもうまいのか。この数週間の間に、自炊力もとい、ずぼら飯の技術は着実に培われてきている。
 そうした自画自賛は措くとして、本題に入る。まず、このブログを書き始めるにあたっては、 sumahama? のウェブサイトを全面的にリニューアルしてくれた淸造に頭が下がる。それから、しょせんは移住者に過ぎない自分の知らない街の歴史を語ってくれた作谷、そして小泉文夫や中村とうようの精神を受け継ぐ民俗音楽研究家の楠田先生の投稿にも、大いに感銘を受けた。皆の、この非常事態に少しでも意味を与えようとする気概に、随分と励まされた。
 それで自分の番が回ってきて、何を書こうかといろいろ考えあぐねたあげく思いついたのは、数年前にバックパッカーとして訪れたインドで出会ったカナダ人女史の話である。
 ビートルズの「ディア・プルーデンス」という曲を聴くたびに思い出すその人とは、デリーの空港で知り合った。その旅行が人生初の海外旅行であった当時22歳の僕は、税関でのやりとりなどにもいちいち狼狽していたところを、広島の大学で教授の職を務めているというインド出身のナチケタ先生に助けられた。ナチケタ先生は、未明の到着にもかかわらず行き先の決まっていない僕に世話を焼き、たまたま同じ便に乗り合わせた数名を引き合わせ、同じ宿に泊まるよう促してくれた。
 その時一緒になったのは、ニューヨークの大学生であったユダヤ人のイド、カリフォルニア出身で北京に留学していたアンディ、そしてカナダのクラブでバーテンダーとして働いていたという当時23歳の彼女だった(彼女の名前を失念していることに今気づいた、勘弁してほしい)。午前3時ごろ、我々はタクシーに乗ってニューデリーの安宿に到着した。彼女は先に到着している友人と合流するらしかった。
 僕とイド、アンディの3人は、その日からおよそ3日間、同じ部屋で寝泊まりしながら連れ立ってデリーを散策した。到着から2日が経った晩、我々3人は、酒類販売が厳しく規制されているなかで秘密裏に入手したキングフィッシャーを片手に、宿のバルコニーでそれぞれの出自から今後の展望についての話題をつまみにして未明まで語り合っていた(もっとも、当時の僕は英語をほとんど喋れず、聞き役に徹していたが)。
 そこに彼女が現れた。お互いの旅程を確認しあうやり取りの中でふと、彼女は次のように打ち明け、泣き出した。

 「わたしは着いてからずっと友達と二人で部屋にこもってマリファナを吸っていて、どこにも行けてなくて悩んでて。こんなはずじゃなかったんだけど。」

いわく、彼女はデリーの宿に到着して以来、友人とともに部屋の中でひたすら「石」になっていて、気がつけば日が経っていたということらしかった。

 「浦島太郎かよ」と、海外旅行そのものに不案内だった僕はむしろ少し羨ましいような思いを抱きながらその話を聞いていたが、彼女が涙ながらに語るその事情には切実な思いがあるらしかった。
 そこから、彼女を加えた我々4人の議題はドラッグの話へと移り、数時間にわたって議論が展開された。最終的には、彼女がもう少し旅を楽しめるように努力するという結論に至ったのであるが、その話の中で僕が個人的に考えさせられたのは、アンディの次のような発言であった。

「僕も昔やっていた時期があったけど、そのうちに効かなくなって、やめてしまったんだ。」

 アンディが当時どのようなドラッグを摂っていたのかまでは聞かなかった。だけどとにかく、彼女自身もこの “It doesn’t work any more” という言葉に感銘を受けたようで、そのあとは旅程の軌道修正を約束しながら、皆とハグし合って、部屋へと戻っていった。

 アンディは当時すでに子供のいる31歳の既婚者で、その後はコロンビア大の大学院に通ったあと、ニューヨークの市政に携わっていると聞いた。

 ドラッグの問題は、そのものが使用者に引き起こす効用、あるいは使用者当人にばかりではなく、むしろ違法薬物を使用するという行為が引き起こす社会的意味や、使用者を取り囲む社会的状況の方にこそあるのではないだろうかと、最近読んだ本で色々学んで考えさせられていたので、このような話題をあえて記憶の戸棚から引っ張り出してみた。あとは、ユーミンもこれに近いことを言っていたので、ついでに引用しておこう。とにかく「ディア・プルーデンス」はいい歌だ。

“Dear Prudence” by The Beatles

親愛なるプルーデンスへ、出てきて遊ばないか?
親愛なるプルーデンスへ、真新しい一日に挨拶はどうだい
陽は昇り、空は青く、
とても美しい、君と同じに
親愛なるプルーデンス、出てきて遊ばないかい?

親愛なるプルーデンスへ、眼を見開いてごらん
親愛なるプルーデンスへ、晴れ渡った空をごらん
風はやさしく、鳥は歌うよ
君も全ての一部なんだと
親愛なるプルーデンス、眼を見開いてはどうだい?

見渡してごらん

親愛なるプルーデンスへ、君が笑うのを見せておくれ
親愛なるプルーデンスへ、子供のような笑顔を
連なる雲はひなぎくの群れ
だから君の笑顔をもう一度見せてくれ
親愛なるプルーデンス、もう一度笑うところを見せてくれないかい?

親愛なるプルーデンス、出てきて遊ばないか?
親愛なるプルーデンス、真新しい一日に挨拶はどうだい
陽は昇り、空は青く、
とても美しい、君と同じに
親愛なるプルーデンス、出てきて遊ばないかい?

The Beatles “Dear Prudence” from S/T (1968)

ドラッグに溺れちゃうと、新しい好奇心や疑問も持てなくなっちゃうから、また戻ってくると思うのよ。好奇心の強い人は、きっともとの場所に戻ってくると思う。ここにいたんじゃ他のものも見れなくなっちゃう、と思ってきっと戻ってくるよ。ドラッグって一種宗教みたいなところがあって、いろんな好奇心をぜんぶなくさせちゃうところがあると思うんだ。

 ドラッグだけじゃなくて、それに似たものはたくさんあると思う。

 たとえば今いった宗教もそうだし、インドにこっちゃうのとかさ。何千冊も本を読んでる学者とかもそうだと思う。

松任谷由実『ルージュの伝言』1984年、角川文庫。

 …という文章を綴ったあとで焼きそばを作って食ったが、野菜と麺を炒めただけのものがどうしてこうも旨いのか。。。ブラザーどろからソース、春キャベツ、新玉葱さまさまである。