夢の囚人

 プレスリリースでも散々申し上げたことだし、sumahama? の作品をお聞きいただけた方にはすでにご承知のことかもしれないが、アルバム「demos?」の二大テーマは「夢」と「海」であった。この二つの要素が自覚され始めたのは制作過程の半ばからだったが、結果的には、偏在する4人の意匠を媒介するメディアとなっていたといえよう。今日はこの二つのモチーフが僕個人にとってはどのようなものだったのかということを、「夢の恋人」の作詩や着想を振り返りながら再考してみたい。

 「夢の恋人」の詩は、仕事が終わった後に駅のコンビニでビールを買って一人で海辺に出て、ベンチに腰掛けてぼやぼやしながら構想を練り、メモを書き溜めて作った。この一曲の詩を書くために2ヶ月ほど、ほぼ毎日そういう時間を過ごしていたと思う。

 そういう意味で、海は僕にとって言葉を運ぶメディアであった。こう言うと「スピっとる」と思われかねない。けれども、打ち寄せる波の音は音楽的だと思うし、そこに言葉を聞き取ろうと心を砕くこともそんなに悪いことではなかった。無人島にレコードを一枚持って行くくらいなら、無人島の中で一番うつくしい波の音のする場所をディグしたほうが楽しいんじゃないだろうかと思う。

 それで、その言葉がどの方向からやってくるのかというと、海の向こう、夜のしじまの向こうへ行き尽くした先に突き当たる、いつか見た「夢」の断片の集積場である。

 振り返れば、あの頃の自分は夢を通じて出会った人々との思い出を音楽に刻み付けるつもりで詩を書いていたのかもしれない。日々見る夢の中には、うつくしい夢もあれば、身の毛もよだつほどおそろしいという夢もあった。けれども、夢に見た経験が現実の自分を形成するのに一役も二役も買っているのは間違いないと思う。一番グッとくるのは、昔すごく仲が良かった友達と再会する夢を見た時だ。もう多分、現実の世界で彼や彼女らに会うことは一生ない。けれども、夢の中では、約束はできなくても、会えるかもしれない。それがたとえ夢の中であったとしても、人に会えるのは幸せなことだ。そういう夢を見て目が覚めた朝は幸福で、そのつづき見たさに二度寝を試みたことも何度かあるけれど、その望みがついに果たされたということは不幸にも一度もない。

 「夢の恋人」はある友人と夢の話をしたことがきっかけになって生まれた。たしか、その話をした頃にはすでに「夢」と「海」が作品のモチーフになるであろうことを確信していたと記憶している。互いがたった一人でみる夢の話を現実で共有することはなかなかにシュールで楽しいから好きだ。

 その時その友人から教えてもらったのは、原田マハ『楽園のカンヴァス』という小説だった。その作品を読んだことも、詩作に一役かっている。

 加えて、夢がメディアの機能を果たしている作品を他にも紹介しておくと、マーク・トウェイン「夢の恋人」という短編がある。タイトルはこの作品から取らせてもらった。ただ、トウェインの「夢」をモチーフにした作品としては、児童文学の『王子と乞食』も見逃せない。文学の魔法を目の当たりにさせられた作品である。

 コロナ疲れが至る所で見られる昨今、夢の世界にアクセスすることも有意義な時間の過ごし方のひとつなのではないだろうかと思う。

 ただし、夢の見過ぎにはくれぐれもご用心を。「夢の恋人」に入れ込むあまり、「夢の囚人」になってしまっては、二度と現実の世界へは帰ってこれなくなってしまいますよ。