全体主義はどこからくるのか

 ナチス・ドイツ政権下でユダヤ人排外政策の任にあったアイヒマンは、戦後の国際裁判で毅然とした役人らしい態度を貫き、傍聴人を驚かせたという——彼は、自分はあくまで上からの命令を合法的に実行したに過ぎないとする主張に終始したのである。彼はただ、その役職において彼自身が果たすべき職業上の責務を過不足なく果たしたというただそれだけのことであった。彼はいわば、ごく平凡なサラリーマンとして上司の命令に従うことで、数百万人にも登るユダヤ人の殺害を手がけたのである。

 「正義」の名の下に国民を大量殺人へと動員した全体主義国家としての歴史を有するという点においては、日本も例外ではない。1937年の日中戦争開戦後に官主導のキャンペーンとして展開された国民精神総動員運動を経て、翌38年には国家総動員法が制定され、全ての日本国民は建前として国家の掲げる「正義」の信奉者である、ということになった。

 しかし、だからといって全ての人が必ずしも上からの圧力で全体主義に向かっていったのではない。

 精動運動下では「健康」「健全」というスローガンがもてはやされた。体育大会や健康週間といったキャンペーンを通じて、政府は国民の健康に対する意識の啓発に力を入れたのである。それは個々人の健康や身体能力を実際に向上させたというよりも、兵士や児童生徒にとどまらない大多数の国民の身体の動きを国家統制の圏内に動員することに成功したという点において効果を発揮したといえる。実現しなかったが、数年後の1940年に開催が迫っていた東京オリンピックへの期待も国民の健康志向を大いに盛り上げていた。

 商業面から見ても、愛国をモチーフとした映画や小説、雑誌、レコードは実際よく売れたのだ。しからば売れる商品を大量生産するのは各企業の責務である。いわば戦争は国際政治の実行手段であると同時に、ある意味では格好の商品でもあったのだ。産業の担い手たちの多くも内心ではどこかに疑問を抱きながらこの「仕事」に精を出したのであった。

 このようにして「健康」や「愛国」がもてはやされたのとは逆に、ジャズやダンスといった欧米的なモダニズムの文化は「軽佻浮薄」で「贅沢」で「不健康」な文化であるというレッテルを貼られ、次第に退場させられてゆく。今日のライブハウスやクラブにあたるダンスホールは不健全な場所ということで、1940年に完全閉鎖となった。ただし例外として、作・編曲家の服部良一や編曲家の杉井幸一といった少数のジャズ音楽家は、日本の民謡という型を隠れ蓑としてジャズの楽曲を生産し続けることに成功した。ただ、こうした動きも言い換えれば、好戦的かつ愛国的なムードを聴く人が聴けばわかるジャズ風の国民歌謡ないしは国民的軽音楽の商品として生産することで、音楽を時局に適応させる取り組みであったということになる。彼らにとっても戦争はやはり仕事であったのだ。

ともあれ、服部や杉井などの稀有な例を除けば、「正義」が「悪」を討つのと同じようにして、「健康」な文化が「不健康」な文化を駆逐するという風潮が一般化しつつあったのは確かなようである。

 しかし、何が「正義」で何が「悪」か、何が「健康」で何が「不健康」なのかという基準を設定し、その成敗を実行し得たのは、必ずしも権力者や体制側の人間であったわけではない。衆人環視の徹底した公共空間においては誰もが警察になりうるのであり、したがって総動員体制は、上からのみならず、下からの協力、すなわち民間人からの通報や苦情、自治体の啓発といった市民的なエネルギーによっても強化されていったのであった。

 全体主義はある日とつぜん空の彼方から飛来するものではない。全体主義は、私たちの日々の生活を包む空気が次第に変化し、堆積して出来上がるのだ。その社会構造の中では、国民ひとりひとりのささやかな行為が集合的な力となって他者を排除したり、あるいは殺したりする。そうして繰り広げられてきた戦争の責任は一体どこにあるのだろうか。仮に私たちが当時の日本に生きていたとして、我々の日々のささやかな営みは戦争責任を完全に免れることができるだろうか。戦争において日本人がもつのは必ずしも被害者の立場だけではない。そこには多かれ少なかれ加害の立場が存在するはずだ。そのことばかりを強調するつもりはないが、戦争状態は当たり前の生活としてやってくるのかもしれないと想像してみることも、国際平和の第一歩として重要なステップであるとは言えまいか。

 アイヒマンのように、私たちにとって当たり前の仕事や果たされて然るべき責務や行ないがいつか他者に対する巨大な憎悪の実行力となってしまわないようにするためには、私たちのいう「正義」とは何なのか、私たちそれぞれが自ら独立した「個人」として主体的に考え、常に見直し続けていかなければならないことと思う。

 もうすぐ八月——。