照らす月・映す月・欲望される月

夏も盛りを過ぎ、少しずつ日も短くなり、夕暮れ時には若干の涼しさも感じられるような季節になってきた。来たる秋には空気も乾き、やがて中秋の名月(今年は10月1日だそう)が天高く昇る。秋は月を愛でる季節。遠出の叶わなかった今年こそ、ふと月を見上げる喜びを大切にしながら暮らしたいものである。

というわけで、少し気は早いが、今回は、月をモチーフにした楽曲をいくつか取り上げ、その中で月がどのような役割を果たしているかということを考察しながら紹介してみたいと思う。

二葉あき子「ビロードの月」(1936年)

まずは戦前日本のジャズ・ソングから。

「別れのブルース」で世に広く知られることとなる作曲家・服部良一/作詞家・藤浦洸のコンビによる1936年9月新譜の作品。通りの夜風を感じさせるコーラスとホーンの音色に次いで、なめらかな「ビロードの月」が覗き、路上にふたつの影を落とす、という舞台芸術のような描写が光る一曲だ。夜道を照らす月の光は、二人の恋人を照らす照明の役割を果たしている。そして二葉あき子の歌声が、恋人の一方ではなく、月の位相に置かれている点も面白い。

戦前・戦後という時代の隔たりを感じさせない服部とコロムビア・ジャズ・オーケストラのモダンなサウンド、とくにブルージーなギターが全体をリードする配置となっているところが趣深い。

Nick Drake「Pink Moon」(1972年)

続いてイギリスのシンガー・ソングライター、ニック・ドレイクの不朽の名曲。

「アシッド・フォークを代表するミュージシャン」として知られるニック・ドレイクだが、彼の全作品に通底する静謐な音世界は、極彩色のサイケデリアとは趣を異にする、内省的な慈愛に満ちている。

アコースティック・ギターと声だけで紡がれるアルバム「Pink Moon」のサウンドは、夜の孤独の賜物であるといえよう。この作品において月は、彼の孤独を照らす唯一の光源であり、また瞑想の同伴者である(その孤独ゆえに、ニック・ドレイクはこの作品を発表したあと、悲しい末路を歩むことになるのであるが…)。

「14番目の月」松任谷由実。

「言わぬが花/その先は言わないで/次の夜から欠ける満月より/14番目の月がいちばん好き」というフレーズを聞いて、とても感銘を受けた(ちなみにそのことを熱く語ってくれたのは、数年前働いていた職場の近くにあるラーメン屋の大将である)。

月の満ち欠けを恋愛感情の推移を映す指標としてとらえ、満月が一番美しいという観念を打ち破り、これから満たされゆく時期=14番目の月が一番だと歌うユーミンのオリジナリティ、すごいですよねえ…!

小川七生「月灯りふんわり落ちてくる夜」(1997年)

某有名アニメのED曲として知られているが、近年では水曜日のカンパネラ、やなやなぎ両氏によってもカバーされている模様。

ここで月は「わたし」に「あなた」のことを思い出させる存在である。面白いのは、「月灯りふんわり落ちてくる夜」は「あなた」が「欲しくなる」ばかりで、歌い手はそれを伝えたいとは思いこそすれど、そういった状況が「あなた」にとっても同じか否かは問題ではない、というところか。最後には「海の果てへと続く月の道」を歩きたいという。歌詞だけを見ると少し危ない気がしてしまわなくもない、というのは冗談だが、片思いの淡い恋心を歌った、当時の言葉でいうところの「等身大」の歌である、ということになろう。ボキャブラリーはともかく、字余りなフレーズを曲の持ち味へと昇華してしまうセンス——これぞポップ・ミュージックの醍醐味である。ドラムのサウンド、どことなくアジア的な旋律やアレンジも、90年代後半のワールド・ポップス志向を強く感じさせて好印象。

Frank Sinatra with Count Basie Orchestra 「Fly Me to The Moon」(1966年)

言わずと知れたジャズのスタンダード・ナンバーである。

原曲は50年代に書かれたものと思われるが、ここでは月が人を照らすものでも、あるいは人が眺めるものでもなく、恋人によって連れて行かれるべき場所として扱われていることが特色であろう。アポロ11号によって月面着陸が達成されたのは1969年だが、50年代においてすでに人々の関心は宇宙開発の夢へと向けられていた。アメリカン・ポップスの同時代的なトピックに対する反応の鋭さはこうした状況を見逃さないのである。それをシナトラが、カウント・ベイシー楽団による「向かう所敵なし」のアンサンブルに乗せて歌うのであるから、月へのデートも妙な現実味を帯びる。

もっとも、それはたとえ空想であったとしても、月面旅行の夢を見ることのできる「平和」で「ピュア」な人々にのみ許された物語であるわけだが。月への欲望は時に地上の問題から人々の目を逸らさせてしまう。

Gil Scott-Heron 「Whitey On the Moon」(1970年)

そこにきて Gil Scott-Heron は、こうした「持つ者」のおめでたい想像力に相反する現実的な批判を投げる。

「妹のネルがネズミに噛まれた/白人は月に到達した/顔や腕が腫れている/白人は月に到達した/医療費が払えない/白人は月に到達した/おれはこの医療費を向こう10年払い続けるだろう/白人が月にいっても/昨晩家賃を上げられた/月にいる白人のせいで/湯も出ずトイレも無く電気もない/月の上の白人にはあるのに」「去年おれが稼いだ全ての金は/月の上の白人のため?/なんでここに金がないんだ?/ああ、月の上の白人か」云々。過酷な生活環境によって生じる様々な問題を訴える声と「月の上の白人(Whitey on The Moon)」というフレーズとが相互に反復され、コラージュのような効果を生み、白人による支配と搾取が生む抑圧的な社会構造が浮き彫りとなる。月への夢が現実への想像力を奪っているという皮肉——地上で家賃や食料の値上がりが続いているのは、月にいる白人=アメリカの富裕層によって地上の人々が稼いだ金が吸い上げられているからだというブルースである。

Nina Simone「Everyone’s Gone to The Moon」(1969年)

こちらも、物質的に満たされた都市の風景と、それに相反するがごとく空虚になりつつある人々の実存とを交互に描くことで社会の姿を表出した、ブルースのような作品である。「道いっぱいの人々/みんな孤独/通りに並んだ住居は/家ではない/教会を満たす歌声は/調子っぱずれで/みんな月へ行ってしまった」という詩が伝えるのは、月へ行くことへの憧れが人々の内面を空疎にしてしまったという、先に示した「Whitey on The Moon」へと通じるアイロニーだ。

原曲はJonathan Kingという白人のシンガー・ソングライターによるものだが、Nina Simoneのカバーがその詩に一層深い情感を与えているように感じる。

二十世紀のポップ・ミュージックにおいて月は、単にロマンスを照らす舞台装置であるばかりでなく、眺める者の孤独や願望を映す鏡であったり、あるいは恋愛の進展とそのスリルの時間的な高まりを測る役割であったり、はたまた人類の到達すべき行き先という欲望の対象であったりと、さまざまな姿をとって現れてきた。

これらのイメージに強いて共通点を見出すとすれば、良くも悪くも、月は人の心を正直にさせる存在であるということだろうか。月の光が露わにするのは、恋する二人にとっては隠しきれない愛情であったり、独り者にとっては孤独そのものであったりする。その意味で月は人にとって鏡のような存在であるといえるが、それは同時に、本来見るべきものを不可視化する力をも持っているということに自覚的でなければならない。独善的な者にとってそれは、単にナルシシズムを増長させるものでしかなくなってしまうのだ(世界でいちばんうつくしいのはだあれ?)。

そうであるならば、月を見つめることで本当の自分の姿と向き合い、それを通じて、本当の意味で他者を想いやるということに目覚めることが、その美を愛でることの意味として大切なことなのかもしれない。

最後にTom Waits「Grapefruits Moon」を紹介して終わる。

「いま僕は煙草を吸い、純粋であろうと努力する/そして、霞みゆく星のように暗く消え入ってしまうんだ/あのメロディを聞くと僕はいつも/途方に暮れてしまう/グレープフルーツのような月、夜空にひとつ光る星/それが僕に見える全て」

Tom Waits 「Grapefruit Moon」(1973年)