ポピュラー音楽の政治性

 音楽を作るとき、われわれはその音楽がわれわれ自身の個人的あるいは集団的な政治的立場を代弁していると言えるだろうか。端的に言えば「音楽に政治性は必要か?」ということだ。

 このような問いを投げ出しておきながら、わたし自身は即座に否と応える。人は自分の政治的立場を隠しておけるほど起用な動物ではない。殊にあらゆる芸術的表現は、そのことを何よりも如実にさらけ出す。然るに、ラブ・ソングにはラブ・ソングの政治性があり、ギャングスタ・ラップにはギャングスタ・ラップの、エキゾティシズムにはエキゾティシズムの政治性がある。それは万人に解されるものではないし、また必ずしも書き手によって意識されているものでもない。しかし、だからといって、政治性の伴わない音楽など存在しない。

 われわれはこうした無意識的な政治性について、たとえばブルースから、次のようなことを学ぶことができる。

 今日のブラック・ミュージックについて考える上で欠くことのできないブルースという音楽には、その形成段階において民族や階級、ナショナリティを巡る一連の闘争の痕跡が刻み込まれている。奴隷としてアメリカに連行された黒人たちの子孫は、彼や彼女らの先代が過酷な強制労働による苦しみを和らげるべく口ずさんだワーク・ソング(労働歌)の継承とアメリカ人としての自らの生活を編み合わせるようにしてブルースの世界を生み出した。ブルースの歌に聞かれる訛りや奇妙な言い回しから、われわれは、かれらが征服者の言語を正当な教育的手続きすらなく強制的に覚え込まされたことや、あるいは、支配者に気づかれないようなスラングによる言い回しが必要であったという状況を看取することができる。そこに表出される歴史的あるいは文化的な事柄は、各曲における作者の意識的な意図とは別次元のものである。それは個人、あるいは集団の社会生活に潜在する政治性の無意識的な表出にほかならない。

 したがって、ポップス表現者に必要なのは、政治的な「物の言い方」や、さまざまな「印籠」の誇示を消費していくのではなく、自分の置かれている政治的状況を意識化していくことであると考える。そのためには、他者の作品をカテゴリや学理や風評といった、作品に外在的な形式のみによって理解しようとするのではなく、作品に内在する作り手の個性や意匠を能動的に聴きとることが助けとなる。その真実は作者のみが知るものであると同時に、発表された作品をどのように解釈するかは受け手の自由なのだから、そのエートスを主観的に考察することには何の問題もない。大切なのは、こうした能動的聴取の過程でわれわれが何を考えるか、その作品との距離をどのように取るかということである。そうすることで自分のおかれている政治的立場が少しずつ露出しはじめる。