夜のクラブやバーで、たまに見かける人がいる。いつもいるわけじゃない。たまにいたり、いなかったり。いるときは、大体いつも誰かと楽しそうにしゃべっている。そうかと思うと、どこか寂しそうな顔をして、一人で静かに音楽に聴き入っている。そういう「知り合い」が、誰にも一人くらい思い当たるだろう。あの人が何を生業にしているのか、パートナーがいるのか(あるいはパートナーは異性なのか同性なのか)、どういう道を歩いて、どういう橋を渡ってきたのか、みんな楽しそうにそのかれやかの女と話しているのだけれども、誰とてその人の過去を知る者はいない。どこか別の世界から来たようにも見えるし、あるいはどこか別の時間から来たようにも見える。一言で全てを語り尽くしてしまうひと。一挙手一投足が美的なひと。おそらくいつの時代にも一人くらいはそういうひとが、ささやかな注目と熱狂的な支持を得る。それが日本社会の一諸相なのかもしれない。こと昭和の時代において、それは浅川マキをおいていないのではないだろうか。あのひとの歌う街や道や橋や建物や時間のことを、私たちは見たことがない。にもかかわらず、いちおう知ってはいる。あのひとが歌う男や女、あのひとに言葉や音を貸した男や女のことを私たちはいちおう知っている。でも考えてみると、私たちは誰一人としてかの女のことを知らないのである。そのことに気がついて、ちょっと立ち止まってみる。そうすると、何か見えて来やしないだろうか。何か聞こえて来やしないだろうか。私たちが今、ここにいることの意味が。たぶん、夜が明けたらもう、かの女はここにはいないのだけれども、それは私たちにしても同じことである。だけどこの夜に少しくらいの意味があるかもしれない。それを一度くらいは噛み締めてみてはどうか。その一口のあるなしで、この気だるい未来の行き先は大きく変わってしまうかもしれない。夜明けは暗いかもしれないし、明るいかもしれない。まして明日の朝、たしかに起きれる約束すら誰も持っていないのだから。