sumahama? 前史おぼえ書き

 僕はここで、みずからが歴史を語るという行為を通じて、自分自身がsumahama?という現象をどのように記憶しているのかを発見したい。

 sumahama?の活動がはじまったのは、2018年の2月だったか3月だったか、元町の餃子屋で谷から「20:13」の弾き語りのデモ音源を聞かされた晩だった。で、「一緒にバンドやらへん?」と聞かれたのか「一緒に何かやらへん?」と聞かれのかちょっとはっきり憶えていないが、バンドをやろうと言われていたら丁重にお断りしたはずだから、おそらく後者が正解だ。その餃子屋にはあれ以来行ってないが、旨くていい店だった。そのあと、絵描きのまんなちゃんが合流し、三人で林拓とナランチャのライブを観にパコカパへ行った。客はたぶん僕らだけだった。ほぼ他人もどうぜんの三人が、ゴミ箱に張ったロープをはげしくはじきながら「高野山」という歌を独唱するスーツ姿の30代風の男のライブを固唾を飲んで見守るという光景は、いま思い返してみても十分シュールである。
 とにかく、その「20:13」のデモをイヤホンで1、2回聴いてすぐ、トロピカリスモのリズムとカーペンターズの軽快さを併せていくような雰囲気のアレンジを思いついた。それから一週間経たない間に自宅で谷のギターと歌以外の全ての楽器を録音して谷に返した。天気のいい週末の朝、須磨ビーチを散歩していると谷から電話があった。春先の須磨ビーチは若い家族連れでしずかに賑わっていた。鉢伏山の稜線が澄んだ空気のなかにくっきりと浮き上がっていた。送った音源は、「控えめに言って最高」との評判だった。「他にも何曲かあるから」というので後日、谷の家に呼ばれて行き「パッセ」を録音した(手元のmp3では追加日が2018/03/19 21:50となっている)。これは正直「20:13」の時ほど具体的なイメージを感じとることができなかったので、あまりいいアレンジにはならなかったと感じているが、それでも「宅録」「インディーロック」「オルタナティヴ」という方向は見えた。その路線にあやかり、同じ日に僕が即興で作ったのが「elephant in the the room」 だったか。その時点では僕の鼻歌でメロディーを入れてあるだけで、詩はなかった。そこから、作詩コンペを開こうという話になった。その時に「淸造に歌ってもらう?」という話が谷からあったと記憶している。それで「じゃあおれは楠田を誘う」と応じた。
 後日、楠田を誘って谷を訪ねた。晴れた週末の午後だった。詩を用意してきたのはおれと楠田で、古めかしい、少し病的な彼の詩が気に入ったのでそちらを採用した。で、淸造が歌ってくれて、ひとまず完成ということになった。
 多分、その次にまた楠田を誘って谷を訪ねたときに楠田が用意してきたネタが「ソリューション」のコーラス部分だった。蒸し暑さがすこしずつ迫り、ぬるい缶ビールの味わいが深くなってきた頃だ。ブライアン・ウィルソンの節回しを踏襲したそのフレーズに僕がヴァース部分をつけ足し、一時間くらいで作詞作曲から録音まで終わった。歌は楠田とUG、アコギは楠田。ベースとドラムとエレキギターはUG。共同制作に手応えを感じ始めたのはその時で、僕は次第にブリル・ビルディングという空間を意識しはじめた。
 「レイヤー」のダビングもこの日だったと思う。僕がギターを入れ、苦い顔をしている楠田にベースを押し付けた記憶がある(パンチ・インに次ぐパンチ・イン、最後のベンドが作業完了の合図だった)。その日のうちに淸造が歌を入れたが、後日録音し直していたんじゃなかったか。
 同じ日に僕が用意してきたのが「夢の恋人」だったような。詩はなく、ギター、ベース、ドラムと鼻歌を僕が入れ、淸造がクラベスを入れ、楠田が苦し紛れに16ビートのドラムを入れた。録音は谷が担当した。日の暮れかかる夕方だった。
 「夢の恋人」のボーカルは、それから数ヶ月の作詞期間を経たのちに録音した。後日、淸造のボーカルが入った。これらの録音も谷がやっている。ついでに「おしりまるみえ」を録音したのも、このUG歌入れの時だったはず。こちらの曲は西神中央線の車内、トンネルを抜け出た名谷駅付近で突然出来た。明らかにブリル・ビルディングを意識した曲だ。
 「July」を録音したのは梅雨明け頃だった。この6月末から7月頭、とにかく風が強い日があった。録音をした日も天気が悪かった。谷のデモを聞き、ボーカルトラックだけを残して全ての楽器を入れ直した。頭の中には2000年代のイギリスのインディーロックが鳴っていた。
 同時期の録音では「tanakarabotamochi(シュプレヒコールの原型)」がある。これは僕が個人的にピアノを弾いて作ったものを、谷のところに行ってエレピで弾き直し、楠田がベースを入れたものだ(パンチ・インに次ぐパンチ・イン)。それからしばらくアレンジや作詞に行き詰まっていたが、谷部屋を訪れたある日に谷が言った「エレピをオルガンにしたらええんちゃうん」という一言が福音となった。それでピッチを落とし、その場で詩を書き上げ、歌を吹き込み、「シュプレヒコール」として完成した。
 7月の後半には「夢の恋人はやいマスター」というファイルが仕上がっている。これはMVを作るという話が谷からあったときに大急ぎで「完成」させたものだ。淸造の歌を活かすためにアレンジを一からやりなおし、楽器の録音は僕の自宅で夜中にこそこそとやった。「20:13」や「July」でやった、ボーカルと伴奏のギター以外を換骨奪胎させる手法を自らの楽曲に適用したのである。明くる朝、谷部屋に押しかけてミキシングをした。このヴァージョンは結果的にUGのアルバムに収録された。
 そしてこの頃、MVの企画にあわせて「バンド名」というものが懸案事項となってきた。思うに、sumahama?の事業化はここからはじまった。

 ということで、一度このあたりで区切りをつけよう。というのも、書いてみて気づき、自分でも驚いているのだが、これ以降の記憶があまり判然としない。夏の盛りに炎天下でロケハンを行なったこと、三宮のガストで淸造がsumahama?のフォントをスケッチしまくっていたこと、MV撮影のことなどは断片的に覚えているが、録音や制作の記憶ほど鮮やかではない。語れることがないわけでもないが、あまり気も進まない。

 ここに書いたのはあくまで僕の個人的な認識に基づく一種の証言に過ぎない。これをどのように評価するかという問題は、読み手の皆さんそれぞれの解釈に委ねたい。